青海のブログ

本や映画、展覧会の記録と感想等。時々、発達障害について。

映画『世界の終わりから』感想

もう梅雨なんでしょうかね?気温も一定しないので、皆様もご自愛ください。

 

さて、紀里谷和明監督の最新作にして、”最後の作品”という映画『世界の終わりから』を鑑賞してきたのでそれに関してとりとめのない感想を上げます。

 

共感したくなるキャッチコピー

 

sekainoowarikara-movie.jp

 

2023年製作/135分/PG12/日本
配給:ナカチカ

 

評価:★★★☆☆(5つ★満点))

 

「ラスト・ナイツ」「GOEMON」「CASSHERN」の紀里谷和明監督が、「さがす」の伊東蒼を主演に迎え、女子高生が世界を救うために奔走する姿を描いたドラマ。

事故で親を亡くした高校生のハナは、学校でも自分の居場所を見つけられず、生きる希望を見いだせない日々を送っていた。ある日、ハナの前に政府の特別機関と名乗る男が現れ、男から自分の見た夢を教えてほしいと頼まれる。まったく心当たりがない男の依頼に混乱するハナ。そしてその夜、ハナは奇妙な夢を見る。

(※「映画.com」サイトより引用)

 

【目次】

 

映画を観に行ったきっかけ

私がこの映画の存在を知ったのは、この5月の後半に入ってからです。こちらの方のnoteを拝見して、「観てみたい」と思いました。

 

note.com

 

ちなみに、現時点で私が今年観た映画は、『金の国 水の国』『ベネデッタ』と、この『世界の終わりから』の3作品。どれも上記記事の執筆者様の感想記事で映画の存在を知って観に行ったと言えます。ただ、別にこの方の紹介を当てにして、観る映画を決めていた訳ではなく、たまたま続いただけです。そもそも最近、公開される映画情報とか全然チェックしていませんでしたから…

 

ただ、私は紀里谷和明監督の作品はこれまで未見でしたし、監督自身にも全く興味がなかったので、上記記事に接しなければ今回本作品を鑑賞することはなかったので、ご縁に感謝です。この時点で首都圏の映画館では上映終了が相次いでいましたから、先日、夜間上映している吉祥寺まではるばる行って観てきました。

 

作品の良かったところ

結論としては、突っ込みどころはありますが「なかなか見ごたえある、捨てがたいところがある作品」でした。135分という長い上映時間をだれずに鑑賞できましたし、映像は美しいシーンがしばしば見られました。

後、凄く些細な点かもしれませんが、息せき切って駆け寄る人の口からよだれが糸をひく様子をとっているのが、「細かいところまで目配りした演出だ」と思いました。

 

そして、何より、ヒロインの志門 ハナを演じた伊東 蒼さんの演技と存在感がピカ一でした。作中で、ハナはほぼ全編に渡り、不運・不幸のフルコースを経験するのですが、映画鑑賞後、ちょっとググってみたら、この伊東 蒼さん、今年の大河ドラマ『どうする家康』でお市の方(北川 景子)の侍女阿月(あづき)を演じた女優さんじゃないですか!あの、えらい不憫な生い立ちからの、主人のために決死のフルマラソンした末にまさかの死亡…という、視聴者の間でも賛否が分かれたオリジナルキャラでしたが、何故同じような酷い役回りを演ずることになったのか…(;´Д`)

 

NHK 『どうする家康』公式サイトより引用

 

それから、この映画のキャストが結構豪華なのが印象的でした。出演者の一人、高橋 克典さんが本作を「驚くばかりの低予算で制作された」とブログでコメントされていましたが、「金にものを言わせて制作したのでない」筈が、高橋さんを始め、岩井 俊二監督や、北村 一輝さん、夏木 マリさん、又吉 直樹さん(この方の使い方、随分贅沢だと思いました)、富永 愛さん…とこれだけ集まるとは…しかも、失礼ながらこの監督さんは、これまで映画は5作品しか制作されていないし(PVや写真の仕事はされているようですが)、大きな賞をとられている訳でもない。その作品に出演すること自体がステータスになる訳でもなさそう。となると、後は「紀里谷監督に人望がある」くらいしか考えられないのですが…どうでしょうね。

 

引っかかった点

凄い気になったのは、世界の存亡をかけた争いが、日本国内だけで進行していることです。そんなアホな。海外諸国の動向が、全く描かれていません。

 

湯婆婆にしか見えない夏木マリ

 

それに、世界の行く末を左右するハナの過去や、現在いじめにあっている事なんて、政府の特別機関だったら、把握しているに決まっているでしょう?あんな緩い警備していないで、いじめているビッチ共の身上を全て洗い出して「お話して」、二度とハナに関わらせないくらいしなよ、国家権力無能すぎ?とイライラして観ていました。

 

また以下は、作品だけではなく、監督ご自身の為人についても私が引っかかってしまった点についてですが…

というのは、この映画、全体的にあまりにも紀里谷監督の生々しい肉声を感じていたからです。作中で「この世界は救うに値するか」「こんな世界終わってしまえば良い」「この世界は狂っている」「みんな死んじゃえばいい!」というような意味の言葉を誰が口にしても、この監督が現実にこう思っているんだろうな~と思えて仕方がなかったからです。この生々しい表現の仕方は、賛否が分かれるところでしょうが、私は嫌いじゃなかったです。

 

「映画.com」サイトより引用

 

でもねえ…作中あったように、「ある人達を助けるために、人殺しばかりしている奴らを殺して解決」って本当にそうでしょうか?加害者が必ずとも悪とは限らず、また被害者が必ずしも善とは限らないのが世の常。また人間である限り、状況次第では、誰も加害者になることを免れる人はいないと私は思っています。作中の某キャラを通してその辺りのことを描いていたのに、あの終盤の安易な展開は残念でしたし、一部のキャラクターを記号として描いているような印象はありました。

 

例えば最近の事件だと、長野県中野市の4人を猟銃で殺害したあの容疑者、酷い奴だと思いましたが、投降時に、家のワンコの頭を撫でていましたよね。ワンちゃんから見たら、優しい主人だったのかもしれません。このように、一人の人間の内に良きものと悪しきものが混在しているのが普通でしょう。人殺ししている奴=悪→やっつけた、解決!じゃいささか単純すぎると思います。

 

このように、映画を観て色々思うことが多かったのですが、監督の以下インタビューを拝読することで、うっすら感じていた違和感が多少明確になりました。

 

shueisha.online

 

歴史上、争いごとを始めるのはいつも男。古今東西ずっとそれなんです。今のウクライナ問題だって、男のつまらないエゴやプライドで始まっているでしょう。

そして戦争の被害者の最たるものは女性であり、子供なんです。彼らは争いを始めていないのに、一番苦しめられています。だからこそ、終末に向かうこの絶望の物語は、若い人であり、女性に語ってもらうしかなかったんです。

集英社オンライン 紀里谷和明インタビューより引用)

 

→ありがちな「戦争の被害者は女子供」という意見ですが、そりゃあ、古今東西の為政者の大半は男なんだから、「男が戦争を始める」のは合っているかもしれません。

ただ、「女子供が戦争を始めなくても、それに加担することはある」ことは歴史が証明しています。それも嫌々ではなく、しばしば正義だと信じて。

 

他人事じゃあないですよ

 

大学生のときに、CNNでソコボ紛争の映像を見て衝撃を受けたことがありました。娘と妻を目の前で強姦され、殺された男性が、泣きながらインタビューに答えていました。家族を襲った兵士は、ヘラヘラ笑いながら帰っていったそう。

そんな残酷なことはナチスドイツのときに終わっていると思っていました。つまり白黒の映像で見る遠い過去のことだと思っていたのに、「まだ終わってないの?」って。今だってウクライナで同じようなことが起きている。人間は生きる価値がないと、本当に思ってしまいますよね。

子供の頃は絶望をしながらも、いつか争いごとは終わる、いつか世界は平和になると思っていた。つまり希望がありました。ところが今も基本構造は何も変わっていないどころか、もっとひどくなっている。もう、社会に対して絶望しかないし、関わらないように生きていきたいと思ってしまいます。

集英社オンライン 紀里谷和明インタビューより引用)

 

→あの…上記の「CNNでソコボ紛争の映像を見て 云々」のくだりですが、これ、言っていて自分で恥ずかしくならないんでしょうかね?「衝撃を受けた」のは大学生の時だからピュアだったのかもしれませんが、語っているのは50超えた大人の時点ですよね。「そんな残酷なことはナチスドイツのときに終わっている」と何を根拠にそう考えられるのでしょうか。ナチスドイツでホロコーストを推し進めた奴らは、「普通の人(@ハンナ・アーレント)」ですよ?そしてそれは、政権を支持した多くのドイツ人達も同様でしょう。

 

悪は凡庸、悪は陳腐

 

そして、何でしょうか「自分はそこ(残酷で愚かな人間たちの所業)に加担していない」他人事感溢れる物言い。そのつもりが無くても、生きている限り自分が”そう”ならない保証なんて、誰にもないのに。いや、間接的に、もう加担しているかもしれません(世界はつながっています。この話題は語りだすと長いので省略します)。

 

上記のインタビュー等を拝読していた私の脳裏には、山本 周五郎の短編『武家草鞋』の一節が浮かんでしょうがなかったです。

 

世間は汚れはてている、卑賤で欺瞞に満ちているからつきあえない、だから見棄ててゆく…こう仰るのですね…しかしこの老人にわからないことが一つあります、それは、あなた自身のことです。…あなたはひと言もおのれが悪いということは仰らぬようだ。…世間がもし汚らわしく卑賤なものなら、その責任の一半はあなたにもある。世間というものが人間の集まりである以上、おのれの責任でないと云える人間は一人もいない筈だ、世間の卑賤を挙げるまえに、こなたはまず自分の頭を下げなければなるまい、すべてはそこからはじまるのだ

(山本 周五郎『武家草鞋』(『つゆのひぬま』新潮文庫収録)より)

 

 

また映画作れば良いのに

結構きつめなこと言いましたが、紀里谷監督がこの『世界の終わりから』を最後に、映画製作を引退されるのは、勿体ないと思いました。それぐらい見ごたえはありました。

 

それに、作中でヒロインのハナに「もし2週間後に世界が終わるとしたらどうする?」と聞かれた幼馴染のタケル(演:若林 時英 →凄く良い奴)が、「もしそうなら、その前に一緒に映画を観にいこうぜ(`・ω・´)」と返すシーンがあるのですが、このやり取り見て、なんだかじーんときてしまいました。

タケルは足が悪い設定なので、そりゃあ遊園地とか一緒に行くよりかは映画を並んで鑑賞するのが自然かもしれませんが…このくだりで「ああ、紀里谷監督は映画がとても好きなんだろうな」と感じました。考えすぎかもしれませんが…

 

「映画.com」サイトより引用

 

結構長々と書いてしまいました。

 

それでは、また!