青海のブログ

本や映画、展覧会の記録と感想等。時々、発達障害について。

私にとって障害者雇用制度は、自ら「異常な人間です」と先にアピールするためのもの

さて、タイトルで出オチですが、障害者雇用について語っています。

 

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こういう人の輪が辛い人間もいるのです

 

私個人にとっての「障害者雇用制度」というものがこうだと言いたいだけです。

 

以前SNS上で、障害者雇用という言い方が差別的に聞こえる、という意見を出された方がおられたのですが、自分は差別的で結構と思っています。

 

差別というか、”区別”でしょうか。自分の身の安全は確保したいですが、「自分たちと違う存在なんだ」と”区別”はしていただきたい。

 

健常者達*1から自分たちと一緒なんだ、とは間違っても思われたくありません。そんなの不幸の元ですから。

 

だって、実際に違うんだし。

 

私などは、障害の程度は軽い方で、恵まれているのでしょう。障害が重い人と比べても、出来ることは多いです。

 

でも、健常者とは(一見差異が分かりにくいですが)決定的に違う。

 

ただでさえ、私程度の発達障害者は一見普通に見えるます。最初は周りから「自分達と一緒」と見なされ、後から、”異常なものを見る目つき”*2で見られることを何度も経験してきた身には、初めから「私は異常な人間です」とアピールして、”区別”していただくという点では、障害者雇用という「烙印」は有難いことです。

 

「みんな一緒」って思いたがるのって、ある種の暴力だと思うのですが、調べたら行動経済学においてハーディング現象(Herd behavior)という傾向が論じられているのですね。

www.nomura.co.jp

 

なーんだ、周りに合わせたがるのって日本人だけじゃないのですね。

 

ところで、全然障害者雇用と関係なさそうですが、”差別”と”区別”というと、五木寛之さんの小説『青年は荒野をめざす』の中に出てくるパリ在住のレッドという黒人のジャズマンのエピソードを思い出します。

 

うろ覚えですが、レッド曰く、アメリカにいた頃は、自分は酷い差別を受けていた。パリでは、そんな扱いを受けず、最初は嬉しかったが、人間と犬位の”区別”を受けているような気がする。アメリカでの”差別”を受けていた日々の方が、自分が同じ人間同士として扱われていたような気がする…というようなことが書かれていました。

 

それも何だか複雑…このヨーロッパ社会が見せる”区別”は凄く冷ややかなものを感じます。

 

でも、自分としては、(今いる日本の)職場では「あの人は自分達と異なるカテゴリーの存在なんだ」と”区別”をしていただき、そっとしておいてもらう方が嬉しいと思いますけどね。それこそが合理的配慮

 

後、障害を「障がい」と言い換える向きに、違和感を感じています。私にとって、この特性は「害」そのものでしたから。今後も障「害」という言葉はガンガン使っていきたいです。”ギフテッド”とか口が裂けても言いたくない。このように生まれてしまい、この通り今まで生きてきたという事実があるだけ。そこをなんとかポジティブに捉えて生きようとする姿勢には(悪いけど)共感はできかねます。

 

ただ、今の時代に早い段階で障害と診断された若い人達は、そのことで自分を貶めず持って生まれた力を上手く発揮できたらいいだろうな、と思ってはいます。

 

*1 この「健常者」という定義も微妙ですが…障害はグラデーションなので、完全に健常者と障害者と2分出来ないのが悩ましいところです。

*2 これ、異常な”人”ですらなくて、異常な”もの”扱いなんですよ、もう。

 

それでは、また!