過渡期なのだと思いたい(›´ω`‹ )
桜も、もう八重桜に移行しつつありますね。
さて、この1ヵ月超、忙しくて死にそうだった~というだけの短い近況報告(愚痴ともいう)です。

この年度の変わり目は、現在の職場に入社してから過去最高の忙しさでした。だいぶ落ち着いてきましたが…
詳細は控えますが、主な理由としては、休職者やあまり仕事ができない人、いわゆるローパフォーマーが絡んでのことです。私も障害者枠での雇用で制限を受けて(守られた中で)働いているので、下手するとブーメランになりかねないのですが…

今、企業は本当に従業員に対して弱腰になっています。リストラしまくっていた時代がこの国にあったなんて信じられないくらい。皆がSDGsやらコンプライアンスやら人権や唱えるようになって、能力不足や休職をしばしばするからといって、そんなお荷物従業員を解雇どころか、左遷や降格、職制転換することすらままなりません。
この「誰一人取り残さない」という人権に配慮した”お優しい”姿勢を守りつつ、ネオリベラリズムが席巻するこの現代社会で利益を上げていく、その両方を両立していく生き残り戦略を各企業は求められている訳ですが…
ローパフォーマーの穴埋めに奔走する、”普通に働いている従業員”のケアはどうなるんだよ?と内心非常に腹立たしいものがあります。これ、多くの組織での課題だと思うんですが…(障害者枠の自分を”普通に働いている従業員”のカテゴリに入れて良いのかどうか?という問題がありますが)
自分のことだけではなく、他の健常者で必死にまっとうに働いている方々を見ていても、本当に頭にくるんですよ、この問題。こんなんで持続可能な社会と言えるのかどうか。

勿論、ローパフォーマーの方々に怒りを向けても仕方がありません。これは、組織の上層部が考えるべきことだと思います。かといって、会社に怒りをぶちまけるのも違う訳で(行政から無茶ぶりされてこうなっている訳で、その行政だって…と犯人捜ししていってもきりがありません)。
今は過渡期なのだと思いたいです。いつまでもこんな状態で良い訳はないですし。
それにしても…会社が障害者枠で働く私に求めているのは”業績を上げる”ことではなく、会社が(行政の要求する)障害者の法定雇用率を達成して、行政に睨まれないように貢献してね♪…ということだと理解しています。だから、あれ?私いくらなんでも働きすぎでは?と割り切れない気持が強いです。体調やオフの時間も圧迫されていますし。
今の職場には大変恩義を感じていますし、リタイアするまで働き続けたいと思っていますが、年なので(›´ω`‹ )そう長時間労働ばかりできないですよ。体調悪くてもこんな状況だとおちおち休めないですし。ここのところ、ローパフォーマーのしわ寄せを受けて、こちらが病んでしまいそうでした(時間外で言うと、私などより上には上がいるようですが…(汗))。
配属先ではハラスメントなどの不満はないですし、辞めようとかは全く思っていません。でも、柔軟に物事を考えた方が良いな、と思ったのは、最近読んだ加納朋子さんの小説『カーテンコール!』を読んだからです。
「もう駄目だ、耐えられないと思った時、自分の足で逃げられる力を、今のうちに育てて下さい。(中略)我と我が身を救うための、知恵と勇気を身につけて下さい。」
(加納朋子 著『カーテンコール!』より引用)
本当に逃げなくても、「いつでも逃げられる」と選択肢を胸に秘めながら日々を過ごすことはとても大切なことだな、と上記の小説を読んで思いました。
生きることから逃げようと考える位なら。
…ただし。この言葉を読んでいて、反面私の脳裏に浮かんだのは、『ベルセルク』のガッツの言葉でした。
逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ
辿り着いた先、そこにあるのはやっぱり戦場だけだ
せちがらいのう…(›´ω`‹ ) でもリアリティありまくりな言葉で否定できません。

それでは、また!
『上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす ―菌類、植物、動物、人間』展を観て
能登の地震について、シビアな話を伺い、沈んだ気持になっていました。
さて、年明けのお出かけと、読んだ本について手短な記録です。

仕事始め前の最後のお休みに、向島百花園と、上野公園の東京都美術館へ行ってきました。
まずは、向島百花園へ。コロナ禍前に行った時以来です。丁度、「春の七草」の展示中でした。こちらでは、皇室へ春の七草を献上しているそうです。



お土産で、「金唐紙」の栞が売られていたので、購入。栞をちびちび集めています。

園内で、ふかし芋をいただき、上野公園へ移動します(向島から微妙に遠いんですよね~)。到着後、もう少し食べたい…と、公園内のお土産屋兼食事処で、ビール・おでんで一杯やりました。


そして、東京都美術館へ移動、本日の目的である、『上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす ―菌類、植物、動物、人間』展を鑑賞しました。

人間以外の動植物を、それぞれのやり方ー絵画・写真・立体作品ーで「うつす」ことに取り組み続けてきた6名の作家たちによる展覧会です。
創作・表現活動において、動物や植物という題材は非常にポピュラーなものですが、今回注目するのは、特定のいきものと分かちがたい関係を結び、数十年にわたり高い熱量を絶やすことなく、それらの姿を追いかけ続けた/続けているつくり手たちです。
(東京都美術館公式HP 展覧会ページより)
本展覧会は、どれも高いクオリティの出品作が見られましたが、私は、版画家の冨田美穂(とみた みほ)さんの作品群に特に感銘を受けました。北海道で酪農ヘルパーとして働きながら、制作を続けられてきたそうです。



大きな作品が多いのですが、細部の彫りが細かくて…彫り上げるのも大変でしょうが、一枚一枚摺り上げるのも凄く大変かと思います(お一人では摺り作業を完了するのは不可能でしょう)

畜産における牛はペットではなく、"経済動物"です。酪農での乳牛は(ほぼ雌牛であるとして)人間の都合で作り上げられてきた「奇形」であり、生産する乳の量や質が落ちたり、病気となったらすぐ「処分」され、肉や革製品となります。
そんな「彼ら」の現実に、冨田 美穂さんは日々直面しているのだ…と考えると、私は、この作家がただ「可愛い」という感情や愛着だけで、牛をモチーフとする制作に取り組んでいるのでは無いだろう、と言いたいです。

でも、実際は牛が可愛く描かれていますけどね。スケッチを拝見しても、とても可愛い…作品をちょっと見ただけでの印象ですが、この作家がどれだけ関わった牛たちを愛して、深い敬意と感謝をもって制作しているか、と伝わってきます。
おそらく、この作家は牛乳も牛肉も、ちゃんと食べておられると思います(彼らの命を無駄にしないために)。その上で、「彼らの生きた姿」を「忘れないために」作品に残し続けているーそう感じました。

丁度、読んでいた小説『シナモンとガンパウダー』でも、関連するような話が書かれていました。ネタバレになるから詳しくは書けませんが、動物愛護の読者なら怒り狂うようなシーンかと思います。でも、私は”生命の循環”として、このシーンを納得して受け止めました。小説内の海賊も、普段生きるか死ぬかの命のやり取りをしているからこそ、この「生命のリレー」を受け入れたのだと思っています。
閑話休題。
この『いのちをうつす』展は、他の出品作家たちの作品も、見事でした。小林路子さんのキノコの絵画作品は、撮影不可だったのでお見せできませんが…




展覧会最後の方では、視覚障害者向けの展示品もありました。手で触って確かめられる(立体的に加工された)写真や、バードカービングの数々(これは、対応する鳥の鳴き声も聞けるようになっていました)。

展覧会は、(ギリギリですみませんが)~1月8日(月/祝)までです。
鑑賞後、感動して会場を後にしました。
さて…これですめばいい話で終わるのですが……ε(・ω・`*)з
東京都美術館のミュージアムショップは、昔と違って洗練された商品、可愛いものが売られており、今回も買い物をしました。
で、買ったものをその場に忘れて帰りました(汗)出た!ADHD!
翌日は仕事始めで慌ただしい中、美術館に問い合わせして、届けがあることを確認して(拾って届けて下さった方に感謝)、1月6日(土)に再度取りに美術館まで行ってきました。
うわー、また上野公園まで来れた、嬉しいな~(棒)
無事受け取れたのは良かったですが、勿体無いので、近くの東京国立博物館の展示をちょっと見てきました。




大きな企画展は無かったのですが、丁度新年が明けたところで、それに合わせた展示が見られました。例えば、今年の干支の「辰」にちなんで、龍モチーフの書画・工芸品などを拝見することができました。
例えば、下図の書は、清朝の康熙帝の書らしいです。中々見事な出来だと思います。

会場には、中国系らしき観光客もいたのですが、「 (○’ω’○)ん? 俺たちんとこの文化財じゃねえかコレ?」という顔をしていたような…(笑)
下図は、後陽成天皇の書だそうです。風格ある筆致ですね。

他にも色々、見ごたえのある展示品の数々…



トーハク(東京国立博物館)は、建築や内装を鑑賞してみるのも面白いです。今回、照明やステンドグラスに注目して見ました。



…という訳で、新春に2回も上野公園に行く羽目になりました。
まあ、これで冨田 美穂氏作の牛イラストが柄となった、てぬぐいを無事持ち帰ることができたから、良いとしましょう!


それでは、また!
苦にならずにこなせることは才能かもしれない
先週今週と仕事始め後にすぐ連休で、凄くきりきり舞いな状態でした。仕事があるだけありがたいですが、楽しむことも大事にしたいです。
さて、ささやかながら先日文章で報酬をいただく機会があったのでそれについての雑文です。

誤解ないよう書いておくと、仕事だライターだというレベルの話ではなく、モニターみたいなものです。当然私の文章力が買われての依頼でもなく…
自分は昔から文章を書くことが好き(出来は別にして書くことが全然苦にならない)だし、報酬がいただけるなら喜んでやらせていただきます!と快諾しました。自分なりにアウトプットしてまとめておきたい…という気持ちもありましたし。
丁度簿記2級の暗い勉強ライフから解放されたところだったのも良かったと思います。速攻書きあげて提出しましたよ(笑)謝礼は商品券5,000円也~。

推察するに、こうやって声をかけられる対象者は文章を積極的に書きたがる人ばかりではないのだと思います。執筆依頼しても「遠慮します」という返答がしばしばある中で、時々私みたいに書くことが好きな人が応じているのが現状では。

自分は物心ついた頃から重度の活字中毒で、その蓄積があるからアウトプットが苦にならないのだと思います。勿論、読むのも書くのも量・質ともに上には上がいると心得ています(読むの遅いですしね)。
後年、発達障害の診断のために受けた知能テストでは、言語理解(文章を読んだり書いたりする分野)の数値がかなり高いと判明しました。

今まで2回ライターを目指さないかと言っていただいたこともありますが、自分には無理だと思いスルーしてしまいました(アホ)。
私は本ばかり読んで頭でっかちでしたが、”経験”が圧倒的に足りていなかった。経験を広げようとしても、ASD(自閉症)でそれは極めて難しい。自分のすぐそばの人と碌に話せない、世の中にまともな居場所があるのかおぼつかないポンコツが、多くの読者に届く文章を書けるとは…当時の私にはとてもじゃないけれど思えませんでした。勿論、自閉症なりに偏った視点で生み出せるものもあるでしょうが…
それに、ライターなら、取材対象や行き合った人達と雑談とかして、情報収集や執筆の糸口をつかむことができる方が有利かと思います。それも私には難しい。どんな仕事も結局は人相手ですね…自閉症には厳しい世界です。
一行の詩のためには
あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を
見なければならぬ…(以下中略)
でも、自分が思っている以上に、文章を読んだり書いてまとめることが(巧拙は別として)苦にならない…そんな人はそれ程多くないのだと中年期もだいぶ過ぎてからようやく理解し始めました。
谷崎潤一郎や三島由紀夫レベルの文章でもなくても、書いたものをそれなりに褒めていただいたくこともあり、「全然苦手な人よりはマシかも」と小者なりに自信も持てるようになりました。

何より、この「苦にならない」能力が今の会社員生活でも生かせています。詳細は書けませんが、過去の担当者が「嫌で嫌でたまらない」と言っていた仕事が少なくとも「苦にならずに」こなせています。「好きで好きでたまらない」より、持続性があるような気がします。有難いことです。
まあ、本当に筆一本で世間相手に勝負する厳しさと比べたら、おままごとなのでしょうが、仕事のように「好き嫌いは別にして、やらなくてはならないこと」で少しでも「好き」と言えそうな業務があるのは幸運だと思います。

それでは、また!
脳波検査でADHDと”診断された”と主張する人
税効果会計、本当に分かりません(簿記2級)…(涙)
さて、今回短いながらも、元芸能人の木下優樹菜さんがADHDと”診断された”と公表され、ネットで物議をかもしている件について、短い記事をあげます。

ユッキーナさんのADHD公表()については、心ある方々が各所でコメントされているとおり、私もADHD当事者として、 迷惑 と思いました。ADHDと診断される当事者でも、色んなタイプ(私のようにASDでもある人や、LDでもある人、ADHDとだけ診断された人、または症状の軽重など)がいるので、ひとくくりにされかねない恐れがあります。
そもそも、(今の日本で)脳波検査で発達障害の正式な診断は下りない筈です。だから、木下さんが「ADHDと”診断された”、私はADHDです」と主張されるのはそもそもおかしな話です。また、ブレインクリニックはかなり悪い評判を聞いています。人の悩みにつけこみ、高額な治療を勧める典型的な発達障害ビジネスのようです。
それに関連して、SNSでたまたま知ったのですが、筑波大学の精神科医の松崎朝樹 先生という方が、木下さんの発言に疑問を呈されています(この動画を共有したくて、今回記事を書きました)。
こういう、まっとうで良心的な専門家のご意見は、ユッキーナさん程視聴回数を稼がないのですが、少しでも多くの方に知っていただきたいです。
勿論、松崎先生のおっしゃっていることが本当に正しいのかは、各自の判断になります。しかし動画で言われているように、木下さんは胡散臭いブレインクリニックの広告塔兼金づるになってしまっているようで、もうどこから突っ込んで良いのか…
私は彼女に関しては、全盛期から本当に興味が無かったので、今回の騒動でタピオカ事件の概要を知ったくらいです。確かに「何か持っている」人だとは思います(※褒めていません)。
もう芸能人じゃないんだから、大人しくしていれば良いのに…と思いますが、何したいんでしょうね?この方。

それでは、また!
障害者雇用で正社員に登用されました
7月になりましたが…

あ…ありのまま
今起こった事を話すぜ!
『おれは今の会社に障害者雇用で契約社員として採用された
昇給も退職金も無し、正社員登用も無しと聞かされていた
と思ったらいつのまにか正社員登用を打診されていた』
な…何を言っているのかわからねーと思うが
おれも何をされたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…
催眠術だとか超スピードだとか
そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
という訳で、障害者枠で働いている職場で正社員に登用されてしまいましたので、その記録です。
【目次】
会社からの打診
今の職場に入社して○年。色々ありましたが、配属された部署で今も働けています。
職場から、「もう年度更新じゃなくて、無期雇用にしましょう、正社員になりませんか?」と言われてポカーンでした。

人的環境の変化には大変弱いので、基本異動はなしで、一般職での雇用を、と打診されました。
正社員信仰はありません
過去記事に書いたように、どんなに良い条件で雇用されても、続かなければ何の意味もないのです。アルバイトでも派遣でも何でもよい、フルタイムでずっと働ければそれで幸せ。退職金?それ以前の悩みなんですけど。今までが酷かったので、幸せのハードルが超低いのです。
後、今の職場は非正規でも賞与が出ていたのですが、そこは恵まれていると思います。
私は恵まれていた
とはいえ、こんなことが言えるのは、自分が以下のように恵まれていたからだと思います。もし読んで気分を悪くされた方がいらしたらすみません。
親の経済力がしっかりしている
これは本当に恵まれていると思います(状況次第でどうなるか分かりませんけどね)。あちこちに借金しまくりで子供にお金をせびるような親でなくて本当に助かった…自分一人食べさせていくことも本当にままならなかったので、頼られたら悲惨なことになっていました。その代わり「努力不足」呼ばわりされてボコられて、それはそれで大変でしたが。
身内に恵まれている
これも同じ。借金やら反社会的なことで周囲に迷惑をかける人はいないようです(私の知る限り)。有難い…
フルタイムで働ける体力がある
これも本当に有難いことです。メンタル面では、私も色々ありますが、今は比較的安定しているかと思います。障害者雇用で、精神・発達障害系の人は、この辺りで躓く人もいるようで、まずは週5日働き続けることをクリアするのは重要なことです。
職場で人に恵まれた
入社当初の上司が、私の特性や得意不得意なところをみて仕事を振ってくださったことが大きいです。行政から言われて障害者を雇用したけれど、それにとどまらず、私という人材がその能力・特性を発揮して会社に役立つようにしようと考えていただきました。
また、所属は会社の管理部門に据え置きです(正社員登用後も)が、このような業務は、おかしな人には任せられません。結果、まともな人達が周囲に集まるという有難い状況。
行政からの通達も大きい
「キャリアアップ助成金」という助成金があるのを知りました。成程…
近年、同一賃金同一労働の流れがあったのも大きいです。勿論障害者の法定雇用率についても。
業務内容については詳しくは書けませんが、正社員がやっていた業務を引き取ったり、正社員に業務を教えたりしていたので、同一労働同一賃金という近年の流れも大きいかと思います。
本当に私で良いのですか?
正社員登用に当たって、指示があったので改めて履歴書を作成して提出しましたが、作っていて、顔から火が出る思いでしたよ。よくこんな酷い職歴の人間を正社員にしようなんて思ってくれたものです。

しかし、それなりの待遇には責任がつきものです。
後ですねえ、過去に派遣として働いていた時の話ですが…就労先で大事な仕事を任される話が進んでいたのに、結局更新してもらえず知らん顔して切られたことがあったので、今回の正社員登用も、ギリギリまで信用していませんでした。
しれっとその話は「なかったことに」されるかも?と思っていましたよ…悲しいですが、そのようなことはよくあることです。
家族からは、昨今の世界情勢を鑑みて、「会社大丈夫?」と心配されましたが、大丈夫…なことを祈りたいです。

それでは、また‼
私にとって障害者雇用制度は、自ら「異常な人間です」と先にアピールするためのもの
さて、タイトルで出オチですが、障害者雇用について語っています。

私個人にとっての「障害者雇用制度」というものがこうだと言いたいだけです。
以前SNS上で、障害者雇用という言い方が差別的に聞こえる、という意見を出された方がおられたのですが、自分は差別的で結構と思っています。
差別というか、”区別”でしょうか。自分の身の安全は確保したいですが、「自分たちと違う存在なんだ」と”区別”はしていただきたい。
健常者達*1から自分たちと一緒なんだ、とは間違っても思われたくありません。そんなの不幸の元ですから。
だって、実際に違うんだし。
私などは、障害の程度は軽い方で、恵まれているのでしょう。障害が重い人と比べても、出来ることは多いです。
でも、健常者とは(一見差異が分かりにくいですが)決定的に違う。
ただでさえ、私程度の発達障害者は一見普通に見えるます。最初は周りから「自分達と一緒」と見なされ、後から、”異常なものを見る目つき”*2で見られることを何度も経験してきた身には、初めから「私は異常な人間です」とアピールして、”区別”していただくという点では、障害者雇用という「烙印」は有難いことです。
「みんな一緒」って思いたがるのって、ある種の暴力だと思うのですが、調べたら行動経済学においてハーディング現象(Herd behavior)という傾向が論じられているのですね。
なーんだ、周りに合わせたがるのって日本人だけじゃないのですね。
ところで、全然障害者雇用と関係なさそうですが、”差別”と”区別”というと、五木寛之さんの小説『青年は荒野をめざす』の中に出てくるパリ在住のレッドという黒人のジャズマンのエピソードを思い出します。
うろ覚えですが、レッド曰く、アメリカにいた頃は、自分は酷い差別を受けていた。パリでは、そんな扱いを受けず、最初は嬉しかったが、人間と犬位の”区別”を受けているような気がする。アメリカでの”差別”を受けていた日々の方が、自分が同じ人間同士として扱われていたような気がする…というようなことが書かれていました。
それも何だか複雑…このヨーロッパ社会が見せる”区別”は凄く冷ややかなものを感じます。
でも、自分としては、(今いる日本の)職場では「あの人は自分達と異なるカテゴリーの存在なんだ」と”区別”をしていただき、そっとしておいてもらう方が嬉しいと思いますけどね。それこそが合理的配慮。
後、障害を「障がい」と言い換える向きに、違和感を感じています。私にとって、この特性は「害」そのものでしたから。今後も障「害」という言葉はガンガン使っていきたいです。”ギフテッド”とか口が裂けても言いたくない。このように生まれてしまい、この通り今まで生きてきたという事実があるだけ。そこをなんとかポジティブに捉えて生きようとする姿勢には(悪いけど)共感はできかねます。
ただ、今の時代に早い段階で障害と診断された若い人達は、そのことで自分を貶めず持って生まれた力を上手く発揮できたらいいだろうな、と思ってはいます。
*1 この「健常者」という定義も微妙ですが…障害はグラデーションなので、完全に健常者と障害者と2分出来ないのが悩ましいところです。
*2 これ、異常な”人”ですらなくて、異常な”もの”扱いなんですよ、もう。
それでは、また!
感情は動いている
仕事が急に押し寄せてきて、ひーひー言っています。年度末までこのペースでいくのは…いや~(;^ω^)
さて、ASD(自閉症スペクトラム障害)あるある?な「感情表現に乏しいので落ち着いて見られる問題」についてです。

【目次】
ASDの人にも感情はある
ASD(自閉症スペクトラム障害)の特性として、「無表情」ということが良く言われます。相手に伝わる感情表現が上手くいかないのです。
これは、私も当てはまるようです。
子供の頃は、男子に「無表情」ってからかわれたことあったなあ…(結構ショックだった(´・ω・`))
ASDの人は、感情より理詰め優先であるなど、独特のコミュニケーションをとり、非言語面でのやりとりが大変苦手だったりします。自分の場合は、目くばせしたり頷きあうとか、くすくす笑いあうとか、意味のないやりとり(いわゆる“雑談”ですね。やりとりをすることそれ自体が目的の)とか…考えただけで死ねます。無理。
仕事での業務連絡や、趣味の仲間との会話は出来るのですけどね。精神科の先生にそう言ったら、「あなたはそういう“情報のやり取り”だから出来るんです。一方、感覚的なコミュニケーションではあなたは困難を感じるんです」と言われました。なるほど~
でも、ASDの人は、感情が無い訳ではないんです。独特かもしれませんが、確かに感情はあって、ただ表に上手く出せないだけなんです。
そんな特性もあり、ASDの人はロボットのような印象を周囲に与えることもあるようです。

私も昔「ロボットみたい」と言われたことがあります…
落ち着いてねえよ
そのせいか、子供の頃から「落ち着いている」と言われることが多かったです。
仕事と家庭の両立でいっぱいいっぱいだった母から「〇〇〇(本名)は落ち着いているから助かるわ」と言われ、内心ストレス溜めまくりでした。こっちは自閉症で、周囲と上手くやれずに常に苦しい日々を送っていたので(当時は“健常者”として生きていたからケアも全く受けられなかった)、そんなことを言う母に憎悪を募らせていました。
後年、この憎悪は溜まりに溜まって噴出するわけですが、話題がずれるのでこの話はここまで。
命に係わる系の病気になった時もそう言われました。取り乱さず、入院や通院を淡々とこなしていく(ように見える)様子を見た周囲の人達からも「落ち着いている」と言われましたが、それなりに不安はありました。
そんな自分は「感情表現に乏しい」から周囲から「落ち着いている」と見なされるだけだといい年になってようやく気づきました(怒)。
そして、感情表現が上手くできない故に、辛い時、ストレスを溜めた時も、周囲に理解されず、「大丈夫だ」と思われて…自分がどれだけ損をしていたか思い起こして独りで怒り狂っていました。
伝える努力はしていきたい
ただ、そうは言っても、自分から「感情が動いている」という“情報”を周囲の人に渡すよう意識して努める努力はしていきたいです。
今までいくら言っても自分が辛く感じていることが通じなくて相手を恨んだりしましたが、自分のゼスチュアでは伝わりにくいのだ、とようやく分かりました。
健常者の感情表現の豊かな様(いわゆるノンバーバルコミュニケーションですね)には、いまだに見ていてびっくりしますが、せめて言葉では、「感情が動いている」という“情報”を発信できたらいいな、と思います。

それでは、また!




