結局6月に梅雨明けしちゃいましたね、ひぃぃぃぃ~
さて、今回は「名前」にまつわる話です。
仕事でもプライベートでも、関係する会社や人のお名前を間違えるのはタブーですよね。仕事で堂々とよその会社の名前を間違える人がいると、ハラハラします。自社内なら危険人物、他社の方なら要注意人物(お客様でなければ、ハイ、さようなら です。)。
私自身の名前に関しては、間違えられても平気なのですが。
マイネーム(下の名前)は、「たまに見かける」程度で、あまりないのに加え、漢字表記は多少バリエーションがあるため、全くの同じ表記の名前の人に遭遇したことはほとんどありません。
ただ、子供の頃はとろくてコミュ障で馬鹿にされていたので、名前を揶揄した言いかえで呼ばれて、いい気持ちはしませんでした。
キラキラネームというものでもなく、自分の名前は嫌いではないですが、特に誇らしいとか好きという程ではありません。加えて、前述のとおりあまりない名前のため間違われることにはなれっこです。いちいち怒ったりもせず「あーはいはい」って感じです。
でも、もっとレアなお名前だと、一発で名前を憶えてもらえるかもしれません。
先日、女優の紅甘(ぐあま)さんがご自分のお名前について書かれたブログの記事を拝読して、「名前ってなんだろうな」と思いました。
人を人たらしめている重要な要素の一つである言葉、その言葉を使った「命名」というこれまた人間独自の営み。
あらゆるものに人は名前をつけ、認識する一助としていました。生き物だと「人間」とか「象」とか「桜」とか大きい種の枠組みとしての名前もあるし、「孝宏」とか「ハナコ」とか「薄墨桜」とか、替えのきかない個体を区別する名前もあります。
「名前」って、考えると結構奥が深いテーマです。奥深すぎて、私の手に負えないくらいに。
紅甘さんのブログの話に戻ります。
先日、たまたまこの文章を読む機会があり、受けた印象は「とても文才のある、内省的な方だな」ということ。
紅甘さんのお名前(本名です)は、見ての通り非常に個性的で、ネット上では「可哀想」という外部からの声が多いようです。ごきょうだいも、そろって変わった名前。
しかし、上記のブログの記事の、
それでも、私は自分の名前をとても気に入っている。
その訳は覚えてもらいやすいとか字面が好みだとかそういうこともあるが、なにより、人が私を呼ぶその瞬間が好きだ。
私の名を呼ぶその人は、そのときにしかありえない口の動きで、ただ私を呼ぶためだけにその音を使う。
たったひとり私だけを指す言葉があるなんて、「可哀想」であるどころか、どんなに恵まれているかしれない、と名を呼ばれる度に思うのです。
(以上 内田紅甘さんのブログ記事「名を呼ぶ」(2019/8/18)から引用)
…というくだりを読んで、ほろっときました。
「ああ、この人は自分の人生(存在とも言える)を憎んでいないんだ」…と。
お母さまの内田春菊さんについては、あれこれ思うところはあったのですが、少なくとも紅甘さんとの関係は悪くはないのかも?
今風に言えば、自己肯定感が高い感じ。
彼女の女優としての仕事については無知ですが、この人の文章にもっと触れていたい、書籍を出版されたら購入したい、と思いました。
それでは、また!