青海のブログ

本や映画、展覧会の記録と感想等。時々、発達障害について。

『羆嵐』吉村 昭 著 感想(ネタバレあり)

さて、吉村 昭 著『羆嵐』を読んだ感想です。

 

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みんなだまされちゃダメだ!!

※注:盛大にネタバレしています

 

羆嵐(新潮文庫)

羆嵐(新潮文庫)

 

 

評価:★★★★★(5つ★満点))


【目次】

 

 

概要


日本史上最悪の獣害事件と言われる「三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)」をモデルにした小説です。北海道開拓時代に1頭の巨大なヒグマが約1週間にわたって貧しい開拓部落を襲い、7人を食い殺して3人に重傷を負わせて人々を恐慌に陥れた様を綿密な取材を元に描いています。


ヒグマの性質や代表的な獣害事件については、↓前回の記事に書きました。

 

aoumiwatatsumi.hatenablog.com

 

 

あらすじ


第一次世界大戦中の大正4年(1915年)暮れ。貧しい開拓地である北海道苫前村六線沢の島川家で一家の主婦と子供の2人がヒグマにより殺害されるところから話は始まります。冬眠に失敗したというこのヒグマは2人の通夜の席にも現れ、さらに盛大に火を焚いていたにも関わらず、隣家の明景家に侵入し子供や妊婦を含む4人を殺害します(胎児を含めると5人)。あまりの被害に、六線沢や、近隣でここより前に開拓されていた三毛別では、海により近い古丹別へ老人・女・子供を避難させます。

 

警察が出動するも効果が見られず、殺された者の遺体を囮のために現場に放置することにも。とうとう三毛別の区長は酒乱で乱暴者ではあるけれど、熊撃ちの専門家である猟師山岡銀四郎を招聘し、ヒグマを仕留めることを依頼します…

 

感想

 

淡々と描かれる恐怖

熊は人類の敵。殲滅せよ。と言いたくなる本でした。

今よりずっと闇の力が強い開拓時代の貧村。気密性なんて無いボロい家屋。暗闇の中人食いヒグマが人骨を噛み砕く音。雪の描写。遺骸を回収しての通夜の席でのヒグマの襲撃(獲物に対する執拗さ)。夫が事件の通報をしに他村へ出かけた中、火をものともせず踏み込んだヒグマに殺される妊婦。人海戦術で仕留められると集まった男達のてんやわんや。暗い視界で、見張りが見る対岸の切り株が6つの筈だったのに「7つに増えている」恐怖。

非情なくらい淡々とした筆で恐怖の日々が描かれていきます。

 

前回の記事で書いたように、ヒグマは獲物に対する執着心がとても強いです。犠牲者を荼毘にふすという人間界の事情のため、喰われかけの遺骸を取り返した行為=ヒグマに喧嘩を売る行為でした。そもそも、ヒグマからすれば勝手にやってきた開拓者達なんて、テリトリーに"餌"が自分から入ってきたようなものです。

 

素人がいくら集まっても駄目

タイトルの『羆嵐』とは、ヒグマを仕留めると吹くという嵐を指します。そう、人喰いヒグマは銀オヤジこと猟師山岡銀四郎に無事射殺されます。良かった、良かった。

 

でもここまでが長いのですよ。銀四郎のキャラクターは、作者の吉村さんの創作がかなり入っているようですが、共同体の鼻つまみもので、「あいつはよしておけ」と皆言う問題を抱えた人物です。事件発生頃には、呑んだくれて借金のカタに大事な銃を預けて、猟どころではありません。

 

だから、警察や、他村の者も含めて沢山集まった男たちが銀四郎などあてにはせんわ!と自分達だけでヒグマを討伐しようとしますが、所詮素人の集まり、手入れを怠った銃の多くは不発だったり、撃っても外れて、挙句の果てに投宿している家で薪が崩れ落ちた音をヒグマの襲来と勘違いして、パニックになる始末。

やはりプロに頼もう、と区長さんが大金を出して銀オヤジを呼び寄せる手配をすると、「何であんなやつを呼んだのだ」と警察の分署長から叱責される憂き目にあいます。

 

真打登場

銀四郎がやっと作品で姿を見せるのが全体のページで言えば70%くらい過ぎて、やっとのところです。それから彼が標的のヒグマを射殺するまでが、丁々発止の知恵比べのバトルの末に…ではなく、あっさり終わります。

 

最初に銀四郎は区長さんと共に、無人となった六線沢の集落に入り現場検証中に件のヒグマを目撃。この時は相手には気付かれませんでした。

その後の山狩りで、フッと「皆と別行動を取る」、と言って(区長さんは同行)そこからわずか6ページ程度で標的を仕留めてしまうのです。標的の気配を感じ取り、視界に入れて射殺まではたった3ページ。直接対決はこれだけです。ここがリアルで凄いなあと思いました。

 

数を頼んで集まった連中が、逆に無駄に時間と労力を浪費する過程は、文庫版で100ページ以上かけて描かれます。その末に、プロが1人登場しただけで、あっという間に解決、という凄み。それも無人となった集落に苛立ったヒグマが人のいるエリアまで出てくるかも?という(殺るなら)今でしょ!!今しかない!という最初で最後のチャンスで決めたのです。


後、更に銀四郎のプロとしての凄みを感じたのは、30m離れた距離で急所を撃ち抜く視力の正確さと度胸。マジでスナイパー。前回の記事で書きましたが、熊は全力だと自動車並みに走るそうです。仮に時速40kmで走るとして、この時撃ち損じたら良くて逃げられる、悪ければ3秒足らずで接近してきて、殺されかねません。時には、「数mまで近づいてヒグマを仕留める」そうで、失敗すなわち死の稼業です。私なら何回死ななきゃならないかな?

 

小説では、銀四郎自身の心情や葛藤はあまり描かれていません(読者は視点人物である区長さんの目を通して伺うしかありません)。作者はヒグマを射殺した直後、この老練な猟師が血の気のすっかり失せた白い顔で振り向く描写で、その恐怖と葛藤を簡潔に表現しています。

 

これが凡百の作家ならば、もっと展開を盛り上げて銀四郎の過去話など織り交ぜて、エモーショナルに描いて…そうした作品なら、本作のように長く読まれる本にはならなかったでしょうね。

 

MVPは三毛別の区長さん

銀四郎も凄いのですが、本作のMVPは、三毛別の区長さんだと思っています!
とても責任感があり、この事件に際し清濁併せ呑んで、癖の強い銀四郎の力を借りようとする区長さんの判断が、結果的に事件の終息につながるのです。

この方は「普通の人」なんですよね。世俗の中にいて(開拓地の中の世間だけど)、共同体の維持のために自分の出来ることを誠実にやっていく。熊への恐怖から、思わず銀四郎の腰にしがみつくへなちょこぶりを見せながら、それでも皆のために立ち上がる。


銀四郎のような凄腕ではないのですが、やるべきことに取り組んでいき、力を尽くす。スーパーヒーローではないこういう市井の"普通の人"たちによって、世界は維持されているのだと思います。

 

余韻のある結末

仕留めたヒグマの肉を銀四郎は「しきたりだ」と戻ってきた集落の皆に食わせるよう指示するのですが、これが彼らがこの地に根を下ろすイニシエーションとして描かれている印象でした。人もヒグマも、食うか食われるかなんですよ。"共生"なんて綺麗事だと思います。

そして事件終息後、老いた銀四郎最後の猟とその後の死、人が戻った六線沢について語られます。結局一度廃村になるのですが、その後こんなデンジャラスエリアに、戦後満州からの引揚者達が知らずに入植します。何も説明せず「住め」というお役所が鬼畜過ぎ。

 

中々読み進められず、途中一旦図書館に返却しましたが、面白かったです。